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TEGE TEGE BIYORI てげてげ日和

大自然に恵まれ、豊かな食、
魅力的な人が集まる南国・鹿児島—。
「てげてげ日和」では、
鹿児島生活10年目のライター・
やましたよしみが、
鹿児島の素敵な人・モノ・風景などを
ご紹介します。

2018.11.05

【第20回】壮大なスケールを描く表現活動と、小さなスケールの21世紀型の暮らしを実践する大寺聡さん。(前編)

鹿児島のクリエイターでこの方を知らない人はいないのでは? 今回の『てげてげ日和』に前編・後編と2回にわたってご登場いただくのは、日置市吹上町永吉在住のイラストレーター・大寺聡さん。東日本大震災以降、巨匠でありながら「動く永吉」を旗揚げし、永吉を盛り上げる活動にも熱心に取り組まれる“地域人”としての顔をもつ。

気持ちいい秋晴れの日、大寺さんのご自宅兼アトリエ「オーテマティックハウス」に出かけて行った。木々に囲まれたモダンな建物のチャイムを押して、奥にあるアトリエへ伺う。何人ものクリエイターたちがSNSなどにアップし目にしていた、あの“タイムトンネル”に胸が躍る。あいさつも早々に本題へ。今回、大寺さんが毎週土曜日の朝に開催している“アサカツ”の場「永吉銀座」をテーマにお話をうかがう予定だった。無論、大寺さんにもその旨をお伝えしていたが、話の始まりは大学時代へとさかのぼる…。

大寺さんのアトリエ・タイムトンネル。インタビューはここで行われた。

大寺さんのアトリエ・タイムトンネル。インタビューはここで行われた。

ーー大寺さんは、インターネットの黎明期でもある2000年に東京から吹上町永吉へ移住され、2011年の東日本大震災をきっかけに“永吉銀座”や永吉での地域活動に取り組みを始められたそうですが、それは震災を目の当たりにして、何か想いを具現化するためのものだったのでしょうか?

「インターネットができて、どんどん社会の一極集中がなくなると思っていたんですよ。田舎暮らしが流行ると思って引っ越してきたんですけど、まったく逆でした。今でも移住者は増えてきたけれど、統計からしたら圧倒的に少ない。人口が減っているというのもあるけれど。あと、自分はバブル期を学生時代に経験していて、そのころ“調子に乗っている日本人”の姿を見て、なんか違うんじゃないかとずっと思ってたんですよ。

そして東日本大震災が起こって目が覚めると思ったら、まだまだ道が遠いなと。調子に乗っているというのは、当時はこの言葉はなかったけれど、“身の丈に合った生活”をしなくちゃいけないという時代がきているのに、贅沢が止まらないという意味。そのことに疑問を感じていたんですよね。いま意識が高い若い人たちが増えてきているので、彼らからしたら自分も勘違いした暮らしをしていると思われているかもしれないですけど」

ーー大寺さんが若い人たちに思われているかもしれない、勘違いした暮らしとはどのようなものですか?

「自分はポップアートとかポップカルチャー、大衆文化に影響を受けて来て、その範囲で仕事をしてるんです。もちろん、もっと小さい社会の仕事もしてるけれど。大きい世界に訴えかけるものが好きだったりするところが、若い世代の人たちからするとちょっと違うんじゃないか、と思われているひとつの要素かなと思っています。わからないですよ、直接聞いたことはないから(笑)」

ーーそんな風に感じることがありますか?

「いまの若い人の夢などが、自分が考えているものより現実的だったり、小さかったり、矮小化したように感じるんですよ。自分の夢の描き方と、かなりギャップがあると思っています。言い方が難しいですが」

ーー私が子どものころには、すでにバブルは弾けていましたが、世の中にはそのなごりのような空気がありましたね。そして、いざ就職となったときに就職先がない、というような状況で実感として不景気を感じました。

「自分のころは大企業に就職すればいい、という時代だったんです。けれど、なんか違うんじゃないかと思っていて。むしろ、就職したら人生がおしまいだなと思っていた。それで学生のころは、“就職しない活動”というのをやっていたんです。どうやったら就職しないで生きていけるかというのを友達と一緒に真剣に考えていた。そうしたら、自然と手に職みたいなところに行き着くわけですよね。自分はたまたまずっと絵が好きで美術大学に通っていたので、ものづくりを通して社会にいろいろなものを発信して生活していこう、と20代前半はやってたんです」

インタビューに答えてくださる大寺さん。話は次々に展開し、でもつながっている不思議。

インタビューに答えてくださる大寺さん。話は次々に展開し、でもつながっている不思議。

ーーちなみに、永吉銀座は震災以降、町やそこで暮らす人たちに対して発信していこうと思ってつくられたのですか?

「コミュニティデザインが語られるようになってきて、ずっと自分も何かしないといけないと思っていたんですけど…。永吉銀座の始まりは、とにかくコミュニケーションがとれる語る場をつくりたいというのが一番にありましたね。ルーツはここなんですけど自分がよそ者なので、なんとか地元の人とつながりたいと考えました。長男が生まれたのが2005年で、ちょうど小学校へ上がるタイミングだったのもあるかな。あと、小学校自体の児童の人数が減っているのもひとつの理由なんですよ。児童数が減ってるし、どんどん長いものに巻かれろ、という空気の高まりにとても違和感を覚えて。

永吉商店街は、昔80店舗くらいあったんですけど、今は12、3店舗。自分が歳をとったときに、ここの商店街で歩いてすべての買い物が済ませられるような場所にしたいという気持ちがあって。永吉という町は昭和の合併で伊作と一緒になって吹上町になっているんです。それまでは永吉は独立した町だった。だからJAや郵便局があるんです。小学校も今年で149年と歴史がある。かつては小さいスケール感のなかでいろいろなものが手に入る場所だったんです。南薩線がなくなって車社会になり、結果として人がいなくなった。

でも昔は、海や山は便利な場所だから人がいたわけですよ。流通の発達や冷凍技術なんかが進んで魚が遠いところでも食べられるようになったけれど、それまでは海や山に寄り添って生きるのが当たり前だった。

それから、ここは新興住宅地ではない。自然の地形や地勢で便利だと判断して自然と人が集まってきた地域なんです。開発してつくった宅地ではないし、町の仕組みというか、かなりしっかりした場所なんですよね。だから多様な人が集まっています。どうしても新興住宅地というのは同じような年齢層とか家族構成の人が集まりがちだけど、こういう場所は昔ながらの集落だからいろんな人がいるんですよ」

ーー永吉も高齢化していると思いますが、いかがですか?

「高齢化してますね。年々草払いや、奉仕作業なんかも人が減って時間がかかるようになっています。自分もだんだん体力的に厳しくなってきてますね。けれど、いずれロボットが肩代わりしてくれると信じているんですよ(笑)」

ーー なるほど。私自身もいま限界集落といわれる田舎暮らしですが、5年経っても地域とうまくコミットしきれないんです。溶け込めないというか…。田舎は回覧板とか集まりが多いですけど、そんな中でも永吉は若い移住者も増えていますよね。

「溶け込んでないんですよ。新しい人との会話もうまくいっていないし。ただ、僕は永吉という場所をつくってきた先輩たちの意見も聞くし、若い人の意見も聞くし、ちょうど間に立たされることが多いんですけど、やっぱり歳をとっている人の知恵は間違ってないことの方が多いですね。そういう人たちの気持ちを大切にしなければならないということを、この歳になってようやく感じ始めていますね。

ただ、現代にそれがマッチしていないから、どうしても若い人と…。一番はそういう仕組みでやってきて住み心地がいいっていうのがあるし、それをつくっているのが草払いや掃除で。日本人がもともと地域をまもるためにやってきたことですよね。自分も都会に育ってきたから町の掃除なんてものは企業がやっていたんです。だから最初は、全然意味がわかんなかったんだけど、こういう場所は企業が入らずに自分たちがなんとか保っていかなければいけない場所なんですよね」

ーーそういうことが大事だと気づける場所が“永吉銀座”ですか?

「そうなんですけど、なかなか若い人が出てきてくれないんですよ。僕は“アサカツ”を基本にしていて、(アサカツが開催される)土曜日の午前中は絶対に潰すって決めているんです。だから金曜日の夜もあんまり飲んかたとか行かないですね。アサカツに備えてます。

アサカツは、本当は公民館活動とは別の軸でやって風通しをよくして、と思っていたけれど、公民館を無視してそういったことができないことがわかったので、いまは様々な委員会などの地域活動にも参加しているんです」

永吉銀座の建物。アサカツは永吉以外の方でも参加可能!

永吉銀座の建物。アサカツは永吉以外の方でも参加可能!

ーーそういった活動を通して、地域の方との距離は近くなっていますか?

「近くなっていると信じたいですけど、わからないですね。永吉銀座ができてから、いま3年目。最近は音楽教室が入っていて、今度、英語の教室も入る。あとはピザ屋さんと、不定期のチャリティーバザーの開催や飲食店が入ったり、ハーバリウムの教室をやりたい人が出てきたり、いろいろ膨らんできています。

とにかく否定はしないと決めているんです。なかなか難しいものはありますが、誰も排除しない。もっといろんな人を入れてレベルを上げていくしかないんですよ。それは隣町から来てくださる80歳の方に言われました。永吉銀座も地元のメンバーは固定化されてきているんです。カラーができてしまったから、入りにくい人もいるんですよ。だから、いろんな軸を入れた方がいいということを、この方からアドバイスいただきました」

永吉銀座の目印はこの看板。ぜひ足を運んでみて!

永吉銀座の目印はこの看板。ぜひ足を運んでみて!

(後編へ続く)

▼大寺聡
1966年、日置市伊集院町にて生まれ、東京都国立市で育つ。子どものころに観た映画『スター・ウォーズ』にカルチャーショックを受ける。1990年、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業。在学中より開始した「就職しない活動」により、以後フリーイラストレーターとして活動する。2000年、拠点を東京から現在の鹿児島県日置市吹上町へ。2017年、鹿児島県芸術文化奨励賞受賞。2018年、霧島アートの森にて個展「オーテマティック2018」が開催された。表現活動のテーマは「最新のデジタル技術と豊かな自然の接点」。
HP http://www.ohtematic.com
Facebook https://www.facebook.com/satoshi.ohtera

取材・執筆
やましたよしみフリーランスの編集者・ライター。鹿児島県薩摩川内市在住。浜松市出身。
大学卒業後、IT関連企業を経て、出版社、編集プロダクションに勤務。
主に女性向けフリーペーパーや実用書、育児情報誌などを制作。
2011年、東京から鹿児島へ移住。2012年よりフリーランスとして活動している。
得意分野は、食と暮らし、アート。二児の母でもある。
■ブログ http://yamashitayoshimi.blogspot.jp

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